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我が人生を変えたメキシコの旅−1986年夏−PART 12 大都会のオアシス/メキシコ・シティー
2005/03/07
次の日、メトロに乗ってチャプルテペック公園に出掛けた。
そこはメキシコ・シティーのど真ん中に作られた市民の憩いの場で週末ともなるとたくさんの人が訪れる。
特に世界的に類を見ないコレクションを誇るメキシコ国立人類学博物館ではマヤ・アステカ遺跡をはじめとしたメキシコ各地に点在する遺跡から発掘された貴重な秘宝を収集、展示しており、学術研究に役立てられている。
この世界有数の博物館を訪れるだけでもメキシコへ行く価値が十分あるだろう。

1964年秋、メキシコの天才建築家ペドロ・ラミレス・バスケスの設計によって完成されたユニークなデザインの石造り建築は広大なパティオを取り囲むような形になっていて、パティオ中央の巨大な石柱から水が流れ落ちる噴水はまさに滝を思わせる。
博物館見学に丸一日費やしても全てを把握し切れず、興味が尽きなかったので滞在中に三回も通った。
平日は比較的スムーズに入場でき、一般客に混じって多くの幼稚園児や小・中・高校生が団体で訪れ、博物館の学芸員からレクチャーを受けながら遺跡から発掘された土器や石碑をスケッチしていた。
また大学生や研究員らしき人たちが各々の研究に没頭する姿も見られた。
週末は朝から長い列を作って待たなければ中に入れない程、混雑していた。
まさに生きた歴史を学ぶには最高の教材として人類学博物館はメキシコ人の宝物として身近に存在する。
羨ましいことにメキシコ人なら誰でも無料で利用することが出来た。

博物館と道路を隔てたすぐ近くには動物園や植物園があり、広大な敷地を持つ園内には多くの家族連れが溢れていた。
またメキシコの有名な画家タマヨの美術館や近代美術館に足を運ぶと今まで観たこともない素晴らしい絵画コレクションに見惚れることが出来る。公園を見下ろす小高い丘の上にはチャプルテペック城があり、その昔メキシコ総督の邸宅として、また後には歴代大統領官邸として使われていたが、現在は栄華を極めた歴史を伝える国立歴史博物館として自由に見学出来る。

メキシコ・シティーにいる間、毎日のようにチャプルテペック公園で時を過ごすうち、その魅力にすっかり虜になってしまった。
そこはかつてアステカ王の保養地として、その後、植民地時代にはチャプルテペック城が建てられ、メキシコ独立に至る歴史の舞台として、まさに大都会という砂漠の中にあるオアシスで知的好奇心を存分に満たしてくれる。

我が人生を変えたメキシコの旅−1986年夏−PART 11 ドラマ溢れる大都会/メキシコ・シティー
2005/01/30
翌朝、けたたましいラッパの響きで目覚めた。
窓から顔を出すとソカロでメキシコ国旗を掲揚しようとする兵隊の姿が目に入った。
毎朝行なわれる儀式らしく、若い兵士が規律正しく隊列を組み畳30畳もある程の大きな国旗を一糸乱れず、ソカロ中央のポールに取り付け、掲揚していく。

その周りを通勤や通学途中の人々が急ぐ足を止め、眺めている。ある人は右手を胸に掲げている。
メキシコ人はこうやって毎日のように繰り広げられるこの国旗掲揚を目のあたりにしながら愛国心を育んでいるのだろう。

日本では目にしたことのない、生まれて初めて見るその光景を見て感動を憶えた。
それから毎朝、ラッパの音がモーニングコールとなった。
朝食を取るため外に出てソカロの国旗台を横切り、ホテルのフロントのオジサンに教えてもらったビルの二階にあるお薦めカフェへ入った。

ソカロに面したバルコニーのテーブルに座り、メキシカンスタイルの朝食を注文した。
空を見上げると底抜けに真っ青な空と明るい太陽が顔を覗かせ、素敵な一日の始まりを予感させた。
さて今日は何処に行こうかと考え、ガイドブックのページをめくった。

とりあえず街を歩いてみようと思い、朝食後ソカロからラテンアメリカン・タワーに向かって歩きだした。
途中、地下鉄の駅があり、その入り口で小学生くらいの二人の子供達がギターを弾きながら歌っていた。
メキシコでは子供が働いている光景をよく目にする。
何気なく見ていると年上のお兄さんらしき子は目が不自由らしかった。
年下の弟らしき子がリードしながら歌を歌い、時折二人でハモッていた。
その透き通った歌声は冷たかった街の空気が朝の太陽に照らし出され、ゆっくりと温められていくようにとてもすがすがしかった。

慌ただしく二人の前を見向きもせずに通り過ぎる人波の中に一人の年配の男性が立ち止まってじっと聞き入っているのを見つけた。
その風貌はお世辞にも決して身なりが良いとは言えず、大きなビニール袋を大事に両手で抱えていた。大都会メキシコ・シティーでは殆ど見かけない、かなり年季の入ったパナマ帽を被っていた。何故かそのセニョールが気になって様子を見ていると、二人の路上ライブが終わったのを見届けてセニョールは彼らに近づき、しばらく言葉を交わした後、ポケットに入っていた小銭を空き缶に入れた。

そして地下鉄のチケット売場へ向かったのだがどういうわけか地下鉄には乗らず、通りに出て歩きだした。失礼とは思ったが彼の後を追い掛けた。それからかなり歩いたようだった。
彼は公園に着くと何をするわけでもなくじっとベンチに座り、物思いにふけていたが突然、意を決したように立ち上がりゴミ箱の中からマクドナルドの袋を見つけ出した。
その成り行きを始終見ていた私はようやくすべてを理解した。

多分彼はこの大都会で行くあてもなく彷徨うホームレスなのだろう。
学校に行きたくても行けないストリート・チルドレンが生きていくために行なう路上ライブに彼が持っていた全財産であったであろう小銭を惜し気もなく心付けとして渡した。
当初は地下鉄に乗るつもりだったのだろう。
しかしその小銭を子供達に渡したため結果的に地下鉄には乗れずにこの公園まで延々と歩いてきた。
そして空腹に耐え切れずゴミ箱の中から食べ物を見つけた。
貧しい者が自分と同じような貧しい者に出会った時、躊躇なく救いの手を差し伸べる『貧者の一灯』を現実にこの目で確認した出来事だった。

お金を持っている者にとってその小銭は大した額ではないかもしれない。
しかしその小銭がもし自分にとって全財産だとしたならば、それを差し出すのには余程の勇気が要るのではなかろうか。
ましてや裕福な人が持ち金すべてを分け与えるという決断を瞬時に出来るのだろうか。
そう考えるとセニョールの行動は凄いことだと思った。
簡単に誰でも出来る事とは思えなかった。

私は彼の心意気に感動し、尊敬の念を感じた。
恥ずかしながら今の自分にはとてもそんな勇気など持ち合わせていなかった。
まさに自分の器の小ささを思い知らされると同時にメキシコ人セニョールの懐の奥深さを垣間見たドラマだった。

我が人生を変えたメキシコの旅−1986年夏−PART 10 ドラマ溢れる大都会/メキシコ・シティー
2005/01/27
後ろ髪を引かれながらハニッツィオを離れ、バスに揺られて次の目的地メキシコ・シティー目指して赤茶けた荒野のハイウェイをひたすら突っ走る。
とにかくメキシコはデカイ。
走っても走っても窓から見える景色はあまり変わらず、手付かずの大地が地平線の彼方まで延々と広がる。

メキシコ・シティーに到着する頃には太陽が西に傾き、遠くに連なる山々に沈もうとしていた。
バス・ターミナルからメトロに乗ってソカロへ向かい、今晩泊まる安ホテルを探した。
あたりはすっかり夜の装いに変わって、煌びやかなイルミネーションが怪しく街を照らし出していた。
ソカロのカテドラル右手に入っていく通り沿いに安ホテルが幾つか在るとルベンから聞いていて、最初に入ったホテルで部屋を見せてもらい、気に入ったので値段の交渉を始めた。
普通は値引きには応じないらしいのだがルベンいわく『雨期の時期は客が少なく、空室が多いはずだから二泊以上するならダメもとで交渉してみるといい』との事でとりあえずやってみた。

確かに予想的中で三泊するなら安くすると言うので一泊US13ドルのところを三泊32ドルにしてもらった。
ホテルの部屋は最上階の4階だったがさすがにエレベーターなどなく、古びた階段を上がった。室内は意外と広かったが、設備はシャワールームとトイレ、洗面台、それとダブルベッドとワードローブと電話があるだけのシンプルな部屋だった。

テレビはなく、代わりにラジオが壁に埋め込まれていた。表通りに面して窓があり、賑やかな騒めきが部屋まで伝わっていた。ホテルにはレストランが無かったので仕方なく外に出て店を探した。
目抜き通りを歩いていると人だかりが出来た屋台を見つけた。
仕事帰りの人達が美味しそうにタコスを頬張っていた。

その光景に引き込まれ屋台でチキン・サルサと牛タンのタコスを注文し、テントの中にある相席のテーブルに座った。
すぐに熱々のタコスが運ばれ、ビールも頼もうとしたが何故かレフレスコ(ノン・アルコールの炭酸飲料)しか置いてなく、コーラを頼んだ。
ふと酒を出さない小倉の屋台を思い出し、隣にいた客になぜビールを出さないのか聞いてみたら、路上の屋台ではアルコール販売は禁止されているとの事。
やはり風紀上好ましくないのか、酔っ払いがトラブルを起こすのを防ぐためだろう。やはりここはメキシコの大都会なのか、ハニッツィオとは大違いで住む人種はさまざまで、皆慌ただしく、そっけない。外国人の旅人にもあまり関心を示さないようだ。

つい比べてしまった自分が田舎から出てきたばかりのメキシコ人と同じように思え、ハニッツィオを故郷のように懐かしく感じた。

  −PART 11へ続く−  

我が人生を変えたメキシコの旅−1986年夏−PART 9 さらば美しき伝説の島/ハニッツィオ
2005/01/02
ルベン達が登場したのは陽が陰り始める頃だった。
静かなマリンバが奏でるプロローグの場面では淡いスポットライトがハニッツィオの夜明けをイメージし、漁師達が美しい湖に舟を漕ぎ出していく様子が表現される。

音楽に合わせて動くマリポーサと呼ばれる投げ網はまさに幾つもの蝶が翔んでいるようだ。
ルベン達の踊りにはストーリーがあって、日々の生活の中から生まれたドラマを描いている。
それは素朴な島の人々の暮らしそのものでもあった。島を離れている人も必ず祭りに戻ってくるのは、きっと心の中に育まれた望郷の念に駆られるからであろう。

島に生まれ育った人間にしかわからない懐かしい家族や友人との思い出があるに違いない。
日本人が盆や正月にどんなに遠く離れていても民族大移動して自分たちの故郷に帰省するのと同じだ。
そして故郷に祭りがあるのは古今東西変わらず、世界中どこにでも存在する。
祭りが終わった最後の晩、私のような身も知らない通りすがりの旅人を温かく家に招き入れ、寝食を提供してくれたことをルベンとマルタに心から感謝した。

なぜ彼らが私を受け入れてくれたのかはわからない。ただ自分達の子供と同年代だった私が宿を探していてほっておけなかったのかもしれない。
私に出来ることは彼らや彼らの家族が日本に来た際に、精一杯の事をすることだと思い、電話番号と住所を書いて渡した。

二人は『いつかお前の国に行くのを楽しみにしてるよ。』と微笑みながら云った。
私は『必ず来て欲しい。今度は私がふるさとの祭りを案内する番だから。』と二人に云った。
ハニッツィオでの最後の晩は三人で遅くまで話し込んだ。

眠るのが本当に惜しかった。ルベンとマルタともっと話をしていたかった。
朝起きて朝食を食べているとルベンとマルタがパツクァロまで送っていくと云う。
一緒に船着場に停泊しているルベンの船に乗り込んで島を振り返ると、朝日に照らされた丘が眩しくオレンジ色に輝いていた。
それは何とも云えない美しい光景だった。

船がパツクァロに着いてルベンとマルタに別れの挨拶をする時、二人が『お前は私たちの息子だよ。
もう家族の一員だから、いつでもハニッツィオに帰っておいで。
この島はお前の心のふるさとなんだから。』と云って抱擁してくれた。
私は胸が熱くなり涙がじわじわと溢れてきた。

『グラシァス!ムチャース・グラシァス!』と何度も云った。
嬉しかった。どこの馬の骨かわからない私を彼らは家族のように接してくれる。そのことがとても嬉しかった。ハニッツィオに戻るルベンとマルタを見送った。
船が見えなくなるまでずっと手を振り、その後方に見えるハニッツィオの荘厳な雄姿をいつまでもいつまでも眺めていた。

我が心のふるさとを瞼に焼き付けるように。そしていつの日かまたこの伝説の島に帰ってくることを胸の中で誓った。

我が人生を変えたメキシコの旅−1986年夏−PART 8 聖なる祭り3/ハニッツィオ
2004/12/17
約束していた時間に船着場へ向かうとカピタン・ルベンはすでに最終便を出してパツクァロへから折り返しハニッツィオへ戻ってきて船を繋留させていた。

仕事を終えてホッとした表情で『腹が空いたろう?マルタがうまいカルドを作ってるぞ。』と私に言った。
ルベンの家は船着場から5分程歩いた丘の中腹の集落にあった。
家の扉を叩くと中から小柄な女性が出てきた。優しそうな大きい瞳がとても印象的だった。
その女性がセニョーラ・マルタだった。昼休み、ルベンが帰ってきた際に成り行きを説明していたらしく笑顔で私を迎えてくれた。

ルベンとマルタは共に50歳くらいの明るく、穏やかな夫婦でルベンはハニッツィオ、セニョーラはパツクァロで生まれ育った。
子供は3人いて皆、独立して島外に住んでいる。

家に入ると表からわからなかったが意外と奥行があり、パティオに面したリビングで夕食を食べた。
鶏肉をじっくり煮込んだカルド・デ・ポジョと豚ヒレと豆のトマト・チレソース炒めを焼きたてのトルティージャで包んで食べた。
口の中で広がるジューシーな味わいは今でも忘れられない。
セニョーラが手間暇かけて作ってくれた家庭料理には愛情がこもっていて、とても美味しかった。

夕食をとりながらいろんな話をした。食後にメスカルを飲んでいるとルベンが『明日は祭りの最終日でクライマックスで我々、ハニッツィオの男達が踊るんだ。仕事は休みだから一緒に行こう。』と言う。
彼は忙しいこの時期でも欠かさず祭りの最終日には参加している。
その理由はフィナーレを飾るハニッツィオの島の男達だけによる民族舞踊に毎年出ているからだ。
その晩はメスカルの勢いも手伝ってルベンと遅くまで語り合った。

翌朝、遅めの朝食を三人で取っていると隣に住むホセとエドゥアルドがやってきた。私を紹介すると二人は陽気に挨拶してきて一緒にコーヒーを飲んだ。
二人はルベンと何やら今夜の踊りについて打ち合せを始めた。
ジェスチャーをしながら念入りに踊りの動きを確認していた。彼らは幼なじみで子供の頃から一緒に踊っていて18歳の頃から毎年欠かさず祭りに出ている。

ルベンにいつまで踊るのかと聞くと『踊れなくなるまでだ。
俺はまだまだ現役だ。』と真顔で答えた。
そんな彼を見ていると祭りが彼の人生の一部になっていると感じた。
彼らがリハーサルをするというので一緒に祭りの広場に向かった。

午前の部が終わろうとしていた広場には午後から登場するハニッツィオ出身の女性プロ歌手のライブを観ようとたくさんの人でごった返していた。
昼休みが終わってステージが始まる頃には立ち見の観客で溢れ、回りは騒めいていた。
軽快なリズムと共に登場した彼女は30歳くらいの貫禄あるカンタンテでマリアッチ(ハリスコ州発祥のメキシコを代表する民族音楽)を得意とした。
その声量ある素晴らしい歌声に度胆を抜かれ、テカテビールを飲む手が一瞬止まった。 

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